奥の細道3 [福島県-宮城県白石市]
投稿者: Benkei 掲載日: 2008-6-1 (1770 回閲覧)
源義経が源平合戦開始したことを聞き岩手県・平泉から旗揚げした際、飯坂温泉のあるこの地で東北南部を治めていた佐藤元治がその子継信と忠信を同行させます。兄弟は義経の下で活躍しますが、最終的に戦場の露と消えてしまいます。
兄弟の母である乙和が悲嘆に暮れているのを見た妻たち(若桜と楓)は、自分の夫が帰らぬ人になった悲しみをこらえて、甲冑を身に着け継信・忠信の凱旋の勇士を装い、姑の心を癒したという話が有ります。
福島県福島市飯坂温泉の医王寺には、佐藤一族の墓があり、資料館には義経と弁慶の遺品が残っています。
芭蕉はここで
『笈(おい)も太刀も 五月(さつき)に飾れ 紙幟(かみのぼり)』
(弁慶の笈も、義経の太刀も五月の端午の節句にかざってくれ、あの鯉幟と一緒に)の句を残しています。

奥州街道 国見峠長坂跡(最寄:JR国見駅、東北道国見IC)。ここには芭蕉も歩いた古道が残っています。ここから外様大名の国(いわば外国を意識しながらの旅)仙台領に入ります。

今では舗装された二車線の道路になっていますが、当時は馬一頭が通れるかどうかの狭い道で、馬が鐙(あぶみ)を擦りながら通ったと言うところから「鐙摺坂」と名づけられたのが写真右手の道路。この下手には奥州平定の英雄・坂上田村麻呂を祀っている村田神社と、その境内左手に甲冑堂が有ります。

ここには、冒頭の逸話の二人の妻たちの甲冑姿の木像があり、芭蕉もここ宮城県白石市で二人の像を見て感激したと言われています。丁度NHKが取材に来ていて便乗して撮影させていただきました。

◆詳しくは、千本桜の奥の細道をご参照ください。
兄弟の母である乙和が悲嘆に暮れているのを見た妻たち(若桜と楓)は、自分の夫が帰らぬ人になった悲しみをこらえて、甲冑を身に着け継信・忠信の凱旋の勇士を装い、姑の心を癒したという話が有ります。
福島県福島市飯坂温泉の医王寺には、佐藤一族の墓があり、資料館には義経と弁慶の遺品が残っています。
芭蕉はここで
『笈(おい)も太刀も 五月(さつき)に飾れ 紙幟(かみのぼり)』
(弁慶の笈も、義経の太刀も五月の端午の節句にかざってくれ、あの鯉幟と一緒に)の句を残しています。

奥州街道 国見峠長坂跡(最寄:JR国見駅、東北道国見IC)。ここには芭蕉も歩いた古道が残っています。ここから外様大名の国(いわば外国を意識しながらの旅)仙台領に入ります。

今では舗装された二車線の道路になっていますが、当時は馬一頭が通れるかどうかの狭い道で、馬が鐙(あぶみ)を擦りながら通ったと言うところから「鐙摺坂」と名づけられたのが写真右手の道路。この下手には奥州平定の英雄・坂上田村麻呂を祀っている村田神社と、その境内左手に甲冑堂が有ります。

ここには、冒頭の逸話の二人の妻たちの甲冑姿の木像があり、芭蕉もここ宮城県白石市で二人の像を見て感激したと言われています。丁度NHKが取材に来ていて便乗して撮影させていただきました。

◆詳しくは、千本桜の奥の細道をご参照ください。
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奥の細道2 [郡山市・浅香山-福島市・信夫山]
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