玄海の宝島、壱岐(長崎県)
投稿者: Daiku-gen 掲載日: 2008-9-2 (1493 回閲覧)
■還暦を祝って、子供達がプレゼントしてくれた、はじめての海外(うみのそと)の旅です。
■玄界灘に浮かぶ壱岐は、美しい海と歴史の香りに包まれた小さな島です。
■場所は、こちらです。
■詳しい観光案内は、こちらの公式サイトをご覧ください。

○猿岩です。黒崎半島のさらに先端にある高さ45mの海蝕崖の玄武岩です。そっぽを向いた猿にそっくりで、気紛れな自然の造形に驚かされます。壱岐島誕生の神話によると、「壱岐の国は、生き島で、神様が海の中で、この島をお産みになったとき、流されてしまわないようにと、八本の柱を立てて繋がれました。その柱が、折れ残り、今も岩となって折柱(おればしら)といわれています。」とあります。

○左京鼻です。鼻とは、突端の断崖絶壁のことで、八幡半島のなだらかなスロープ状の草原を進むと、玄界灘に面して切り立った総延長約1kmにも及ぶダイナミックな海蝕崖に行き着きます。ここの海蝕岩は玄武岩特有の柱状節理で、左京鼻の海中からは、細い柱を束ねたような奇岩が突き出ています。壱岐島誕生神話の八本の柱の一つです。

○はらほげ地蔵です。海の六地蔵で、六地蔵は、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)において、衆生の苦患を救うという六種の地蔵です。海女で有名な八幡浦の海中に祀られています。自然石の頭部で、腹が丸くえぐられているので、はらほげ地蔵と呼ばれています。何時、誰が、何のために祀ったかはっきりしたことはわからないそうですが、遭難した海女の冥福のため、鯨の供養慰霊のためなどと伝えられています。胸の穴は、満潮になって地蔵が水没しても、供え物が流れないように、船から供え物ができるように、あるいは、流行の疫痢の疫病退散祈願のためなどと言われています。

○原の辻遺跡です。紀元前2〜3世紀から紀元3〜4世紀にかけて形成された、大規模な多重環濠集落で、芦辺町と石田町にまたがる台地上を中心に、東西、南北ともに約1km四方に広がっています。平成7年、原の辻遺跡は、『魏志倭人伝』の中の「一支国」の王都と特定されました。発掘調査途中のため、古代史を書き換えるような発見が相次いでいます。最近では、人面石が話題になりましたが、ムンクの絵のようなユニークなもので、3〜4世紀に作られたものです。また棹秤(さおばかり)に用いる錘(おもり)らしきものも出土し、事実だとすると、7世紀とされていた度量衡整備が、さらに400年以上もさかのぼることになります。

○鬼の窟(いわや)です。壱岐では横穴式石室古墳のことを“鬼の窟”と呼んでいます。これは鬼でもなければ、こんな重い石は運べまいといった解釈からでしょう。6世紀後半〜7世紀前半頃の築造で、直径45m、高さは13mです。内部は、大きな玄武岩を幾つも積み上げた横穴式で、石室は、壱岐最大(全国12位)で全長16m、最大の天井石は4mもあります。当時の豪族・壱岐直(あたい)の墳墓らしいといわれています。
■玄界灘に浮かぶ壱岐は、美しい海と歴史の香りに包まれた小さな島です。
■場所は、こちらです。
■詳しい観光案内は、こちらの公式サイトをご覧ください。

○猿岩です。黒崎半島のさらに先端にある高さ45mの海蝕崖の玄武岩です。そっぽを向いた猿にそっくりで、気紛れな自然の造形に驚かされます。壱岐島誕生の神話によると、「壱岐の国は、生き島で、神様が海の中で、この島をお産みになったとき、流されてしまわないようにと、八本の柱を立てて繋がれました。その柱が、折れ残り、今も岩となって折柱(おればしら)といわれています。」とあります。

○左京鼻です。鼻とは、突端の断崖絶壁のことで、八幡半島のなだらかなスロープ状の草原を進むと、玄界灘に面して切り立った総延長約1kmにも及ぶダイナミックな海蝕崖に行き着きます。ここの海蝕岩は玄武岩特有の柱状節理で、左京鼻の海中からは、細い柱を束ねたような奇岩が突き出ています。壱岐島誕生神話の八本の柱の一つです。

○はらほげ地蔵です。海の六地蔵で、六地蔵は、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)において、衆生の苦患を救うという六種の地蔵です。海女で有名な八幡浦の海中に祀られています。自然石の頭部で、腹が丸くえぐられているので、はらほげ地蔵と呼ばれています。何時、誰が、何のために祀ったかはっきりしたことはわからないそうですが、遭難した海女の冥福のため、鯨の供養慰霊のためなどと伝えられています。胸の穴は、満潮になって地蔵が水没しても、供え物が流れないように、船から供え物ができるように、あるいは、流行の疫痢の疫病退散祈願のためなどと言われています。

○原の辻遺跡です。紀元前2〜3世紀から紀元3〜4世紀にかけて形成された、大規模な多重環濠集落で、芦辺町と石田町にまたがる台地上を中心に、東西、南北ともに約1km四方に広がっています。平成7年、原の辻遺跡は、『魏志倭人伝』の中の「一支国」の王都と特定されました。発掘調査途中のため、古代史を書き換えるような発見が相次いでいます。最近では、人面石が話題になりましたが、ムンクの絵のようなユニークなもので、3〜4世紀に作られたものです。また棹秤(さおばかり)に用いる錘(おもり)らしきものも出土し、事実だとすると、7世紀とされていた度量衡整備が、さらに400年以上もさかのぼることになります。

○鬼の窟(いわや)です。壱岐では横穴式石室古墳のことを“鬼の窟”と呼んでいます。これは鬼でもなければ、こんな重い石は運べまいといった解釈からでしょう。6世紀後半〜7世紀前半頃の築造で、直径45m、高さは13mです。内部は、大きな玄武岩を幾つも積み上げた横穴式で、石室は、壱岐最大(全国12位)で全長16m、最大の天井石は4mもあります。当時の豪族・壱岐直(あたい)の墳墓らしいといわれています。
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